「高いところから失礼します。皆様、どうかハルキゲニアに清き一票を」
街宣カーの上で襷を掛けたハルキゲニアが深々と頭を下げている。
「旧態依然とした体制から脱却しなければならないのです」
聴衆ひとりひとりと目を合わせるように周りをくまなく見渡しながら彼は言葉を紡いでいる。そして一際語気を強めてこう言った。 ― 「今こそ変えましょう」
この国は問題が山積だ。社会保障、経済、人口問題etc...みんなわかってはいるのだが期待などしていなかった。目に見えない諦念がこの国を包んでいるのだ。或いは、今にも降り出しそうな頭上に垂れ込めている暗雲はその想いが具現化されたものかもしれないとさえ思えた。かといって誰もが暗い顔をしているわけではなく、定時で帰れれば少し心が弾み、贔屓のチームが勝てば上機嫌でビールのプルタブを起こすような、ごくごく普通の日常を人々は送っていた。
ハルキゲニアには、現状を変えようとする力に対して抗おうとする勢力の存在がありありと見えた。ホメオスタシス宜しく、変化することに対しての生理的反応なのだろうか。
どうせ変化なんて無理なんだからやるだけ無駄だ、もっと悪くなったらどうするんだ、彼らのシュプレヒコールは一見もっともらしく毎日国会前に響いている。
演説を終えたハルキゲニアは街宣カーの中で(選挙戦で酷使している喉をいたわりながら一際小さな声で)呟いた。みんな目を覚ましてくれ、と。
彼は本気でこの国の行く末を案じていた。
一方その頃、現職ピカイア陣営もまた必死の全国行脚を行っていた。初めての直接選挙での首相選出である。地方を捨てることは即ち敗北を意味するのだ。離島も、寒村も、住むのは同じ国民だーーその信念の元ピカイアは寝る間を惜しんで移動を続ける。
もう一体何日公邸に帰っていないだろう。秘書に訊こうとしたが寸前でやめた。答えは、教えてもらわずとも一目瞭然なのだ。そう、「選挙が始まってからずっと」だ。
ピカイアの守りたいものは決して利権ではなかった。この国そのものだ。急激な変化は劇薬となって必ず国を蝕む。後に残ったものがもはや別の国(三島の言葉を借りるならば「とある極東の、ニュートラルで、ぬけめのない経済大国」)の様であってはそれは国を捨てたも同然なのである。
むしろ既に、この直接選挙が実現した時点で国民には巨大なインパクトの変化が起こっているのだ(尤も、この国には古来より連綿と続くロイヤルファミリーが存在し、選挙に勝ったとしても国家元首となるわけではない)。これ以上の変化は無用だ、そうピカイアは呟いた。
さらに言うのならば、現職であるピカイア陣営は、数年前よりずっと進めていた政策があった。それがあと少しでようやく実を結びそうなのだ。今国のトップがこの政策に批判的なハルキゲニア陣営に交代してしまったら、それは水泡に帰してしまう。あれほど国民の税金を費やして推し進めたプロジェクトを、無駄にするわけにはいかない。国を思えばこそ、ピカイアは負けるわけにはいかなかった。
趨勢はというと、ほぼ互角だ。両陣営とも最後の演説を投開票前日の終了時間ギリギリまで行った。体力的限界はとうに超えていた。宣伝カーには医師が常駐し、いつでも点滴を行えた。マスコミは両陣営ともドクターストップ寸前と報道していたが実際は寸前なんて生易しいものでは無かった。止める医師をなんとか説得し(国民全員を説得しようとしているのだ。このくらい容易い)マイクを握り続けた。
投票前日、19:59:59秒。選挙違反にならないように自動的にマイクの電源が落とされた。奇しくも両者とも最後の言葉は同じだった。
「この国を、より良くしましょう」
月並みな言葉とお思いだろうか。しかしこれほど真に迫る言葉は無かった。聞いていたその場にいる誰もが涙した。こみ上げる感情の遣り場がわからずに、涙となって溢れたのだ。有史以来五指に入る演説が、同日同時刻、しかも同じ国で披露されたことになる。
かくして投票は行われた。史上稀に見る接戦となったこの戦いは数々のドラマと、将来の教科書に記されるべきトピックスと、多くの慣用句(「ハルキストの団結」や「ピカイア行脚」等。意味は最新の辞書に詳しい)を残した。
で、結局どちらが勝ったかって?…それは世界で2番目に野暮な質問だろう?
大丈夫、この国の未来は暗くない。投票所の帰り道に、つよしは確信した。一票を投じた指先まで伝わる熱い想いを感じながら。